花熊について
室町時代、花熊の祖先は、姫路屋勘兵衛と名乗り、豪商平野屋五兵衛(後の天王寺屋五兵衛)の番頭として播州姫路で回船問屋を営んでいました。
商いの内容は、瀬戸内の物資の海搬及び警備を主な仕事としていました。
瀬戸内海の海賊の一派を手先として商いに励み、平野屋の財を支えていた様に伝えられています。
信長の全国制覇の動きに伴い、木下藤吉郎(後の太閤秀吉)のもと大きな軍功を上げたようです。
しかし時がすぎ、主家・平野屋五兵衛が太閤秀吉の勘気をこうむり、主人は惨殺 家財没収の憂き目にあうこととなりました。
姫路での商いが成り立たなくなった祖先は、使用人と別れ 主家一族の菩提寺である久本寺(中央区谷町八丁目)の横に小屋を立て、主家一族の墓守りとしてひっそりと暮らしていました。時は慶長7年(1602年)のことと伝えられています。
世の中が落ち着いたころ、花屋としての看板をあげ、以来400有余年、お寺の本堂内のお花・檀家様のお墓のお花を専門に扱い、現代に至っています。
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